菜の花忌とは?シンポジウムはいつ?俳句の季語は?司馬遼太郎の人気の本まとめ!

 

『NHKオンデマンド』

大河ドラマ 国盗り物語|番組|NHKアーカイブス
群雄割拠の戦国時代、天下制覇の野望半ばにして倒れた、美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三。その遺志を継いだ織田信長と明智光秀。この3人の戦国武将にスポットを当て、下克上の乱世を生き、国盗りに懸けた男たちをダイナミックに描いた。原作:司馬遼太郎。脚本:大野靖子。音楽:林光。語り:中西龍。出演:平幹二朗、山本陽子、高橋英樹、近藤...

大河ドラマになるということは、それだけ話題性があり、人気な証拠ですよね。

司馬遼太郎ワールドにどっぷりつかってみてはいかがでしょうか?

 

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4.『坂の上の雲』

この作品は、松山出身の秋山好古・真之兄弟、正岡子規という3人の若者が主人公です。

時代は明治維新が成功し、日露戦争勝利に至るまでの明治期です。

欧米の脅威にさらされながらも、なんとか必死に駆け上がり、坂上にある雲をつかもうとしている主人公3人を中心に、史実に基づいて描かれています。

本作品は、長編作品として初めての近代物でした。

「明治期の歴史に興味を持つことに役立つ一冊」と口コミでも紹介がありました。

ちょっと明治期の歴史には疎い、興味を持つことがあまりない、そんなあなたでも読んでみたら興味が出てきた!となるような作品です。

また、本作はNHKでスペシャルテレビドラマとしても2009年〜に放映されました。

比較的最近の物なので、見やすそうですね!

 

『NHKオンデマンド』

スペシャルドラマ 坂の上の雲|番組|NHKアーカイブス
司馬遼太郎が10年の歳月をかけ、明治という時代に立ち向かった青春群像を描いた壮大な物語。総合(日)夜間に1回90分、3部構成で全13回を、2009年11月から2011年12月まで足かけ3年で放送。原作:司馬遼太郎。脚本:野沢尚ほか。音楽:久石譲。出演:本木雅弘、阿部寛、香川照之、菅野美穂、西田敏行、渡哲也、加藤剛、松た...

 

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5.『燃えよ剣』

最後は『燃えよ剣』です。最近話題になっていましたよね。2021年10月15日に実写映画化されました。

岡田准一さんが演じる土方歳三が注目を集めていました。

この『燃えよ剣』を発端に、土方歳三という人物、「新撰組」という組織が広く知られるようになったといえます。

映画化されてから、原作も読みたくなった人も多かったようで、「歴史が苦手でも、初挑戦した方でも、解説が交えて書いてあり、勢いもあって読みやすい作品だった」という口コミもありました。

上下で1000ページ!ちょっとちゅうちょしてしまいそうですが、何度も読み返している人がいるほどの名作です。

あれ、「新撰組」ってなんだっけ?そんなあたなにもおすすめですよ!

 

amazon 『燃えよ剣 全2巻 完結セット (新潮文庫) 』

 

映画『燃えよ剣』公式サイト

https://moeyoken-movie.com/

菜の花忌日以外にも!作家の忌日

著名な作家の忌日を、ペンネームや代表作にちなんで、文学的な偉業をしのぶ日として、文学忌があります。

司馬遼太郎の他にも、

  • 2月3日:福澤諭吉:雪池忌
  • 2月9日:手塚治虫:治虫忌
  • 4月16日:川端康成:康成忌
  • 7月24日:芥川龍之介:龍之介忌 ・河童忌 ・我鬼忌  澄江堂忌
  • 9月19日:正岡子規:子規忌・糸瓜忌・獺祭忌
  • 12月9日:夏目漱石:漱石忌

などさまざまな文学忌があります。

ここでは、特に有名な三人の忌日をご紹介します。

太宰治の桜桃忌(おうとうき)

1人目は太宰治の桜桃忌です。

6月19日、小説家・太宰治の遺体が発見されました。この日は、太宰治をしのぶ日として「桜桃忌」とされています。

正確にいうと、男女が玉川上水で入水自殺をし、遺体となって発見された日です。警察が遺体を確認し、太宰治と愛人の2人だということが判明しました。

遺体が上がった日であり、何日に亡くなったかは明らかになっていませんが、遺体が発見された日は太宰治の誕生日でもありました。

誕生日でもあることから、太宰治が亡くなってから桜桃忌にはたくさんの人々が墓所を訪れるようになったのです。

太宰治とは?代表作は?

そんな太宰治の生涯はどのようなものだったのでしょうか?

1909年(明治42年)に、11人兄弟の10番目として青森県で生まれました。本名は、島津修治といい、太宰治はペンネームです。

14歳の時に父親は亡くなり、実家を離れ、下宿生活を送り始めます。

東京の大学に進学するも、小説を書くことに熱中しすぎたあまりか、授業料の未納が原因で除籍されてしまいました。

その後の人生は、波乱万丈。

結婚を決めた人がいたにもかかわらず、別に知り合った女性と心中未遂や、複数の自殺未遂、薬物中毒、借金生活、などなど。

ここまで落ちぶれた太宰治を元気付けたのが、2人目の妻の、美知子でした。

これを機に、代表作と言われる

  • 『新ハムレット』
  • 『走れメロス』
  • 『津軽』
  • 『女生徒』

などを連発しました。

美知子夫人と離婚することはありませんでしたが、複数の女性と不倫。不倫女性との間の子どもまでいたといいます。

『人間失格』や『桜桃』の執筆ができたのは、入水自殺をともにした不倫女性の助けによってできた作品だと言います。

波乱万丈の人生。大正を代表する太宰治は女性にだらしない男性だったのです。それだけ、愛情に飢えていた人だったのかもしれません。

ではなぜ「桜桃忌」と呼ばれているのでしょうか?

「桜桃忌」とは?

「桜桃忌」と名付けたのは、友人の今官一(こんかんいち)で、太宰と信仰のあった仲間達とさくらんぼを食べながら思い出話に花を咲かせ、懐かしみました。

今官一は、太宰治が入水自殺をする前にかいた『桜桃』という短編小説から太宰治をしのぶ日として「桜桃忌」としました。

桜桃とは、さくらんぼのことです。俳句では「夏」の季語にもなっています。

また、6月はさくらんぼの旬でもありますよね。太宰治もさくらんぼを好んでいたようで、それらも関係して名付けたようです。

桜桃忌には、太宰治の墓所にはさくらんぼで染まるお供えの様子が見ることができます。

すごい量のさくらんぼですね。

墓石に掘られた名前にも所狭しとさくらんぼが詰め込まれていて、なんだか愛されているのだなと感じます。

お墓の場所は?

太宰治の眠る墓所は、東京都三鷹市にある禅林寺という黄檗宗のお寺です。三鷹駅から徒歩10分ほどの距離に位置します。

禅林寺には、森鴎外のお墓もあり、しかも太宰治の向かい合う位置にあります。有名な文豪が同じ敷地でしかも向かい合うかたちで眠っているとは驚きです。

太宰治は、森鴎外を尊敬していて、生前に同じお寺のお墓に眠りたいと願い、妻である島津美知子夫人の計らいによって、この場所にお墓がたちました。太宰治のお墓の隣には、島津美知子夫人のお墓もあり、二人が寄り添うように眠っています。

とてもステキなエピソードで、太宰治は偉大な文豪だということがわかります。ぜひ、太宰治をしのんで、桜桃忌に禅林寺の墓所に足を運んでみてください。

禅林寺の詳細
  • 霊泉山 禅林寺
  • 住所:東京都三鷹市下連雀4-18-20
  • アクセス:三鷹駅南口下車 徒歩10分

芥川龍之介の河童忌(かっぱき)

2人目は芥川龍之介の河童忌です。

1927年7月24日に、大正時代を代表する小説家の芥川龍之介がこの世を去りました。芥川龍之介の命日を「河童忌」と言います。

どんなに文学を知らない人でも、名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。「芥川賞」という言葉も有名ですよね。

代表作の『羅生門』は国語の授業での印象が強く覚えている人も多いことでしょう。そんな芥川龍之介とはどんな人物だったのでしょうか?

芥川龍之介とは?代表作は?

1982年(明治25年)3月1日、東京都に長男として生まれました。実家は牛乳製造販売業を営んでいました。

11歳の時に母が亡くなり、母方の芥川家の養子に入りました。子どもの頃からとても頭が良かったといいます。

21歳の時、東京帝国大学(現在の東大)の英文学科に入学し、エリートコースを歩み、文学活動をはじめます。翌年、高校時代の同期らと同人誌の『新思潮』を作りました。

23歳で代表作の『羅生門』を文芸誌の『帝国文学』で発表し、24歳で『新思潮』にて『鼻』を発表しました。『鼻』は芥川龍之介の師匠・夏目漱石が絶賛しました。

大学卒業後は教師として働きながらも、文学活動にも励んでしました。結婚し、子どもにも恵まれましたが、1921年に海外視察員として中国へ派遣され、帰国後から神経衰弱など体調を崩していました。

心の病に陥ってしまった芥川龍之介は、1927年に35歳という若さで、睡眠薬を大量摂取し、自宅で自ら命を絶ちました。

20代という若さで才能を開花させ、結婚し子どもも授かり順風満帆に思える芥川龍之介の人生でしたが、30代前半で病に苦しめられてしまいました。

歴史に「もし」はありませんが、“もし”もっと長生きしていたら、もっとたくさんの作品が世に出ていたのではないかと思うと、切なくなります。

芥川龍之介は、短編小説を中心に多くの小説を世に出しています。

ここで3つの代表作をご紹介します。

『羅生門』

〈あらすじ〉作品の舞台は平安時代の京都にあった羅生門。登場するのは、下人と老婆の2人。

生きていくために女の死体の髪の毛を抜く老婆を発見し憎悪をいだき、老婆を押さえつけた下人でしたが、生きるためだとその悪事を正当化する老婆。

老婆の言葉を聞いた下人は、悪を肯定する勇気が湧き、老婆の着物を剥ぎ取り夜の中に走り去ってしまう。

『鼻』

〈あらすじ〉主人公は、池の尾の内供という僧侶です。池の尾とは、現在の京都府宇治市のあたりを指します。

この僧侶は、大きな大きな垂れ下がる自分の不便な鼻に悩みを持っており、池の尾で知らない人はいないほどでいつも笑われていました。

ある時弟子が「鼻を短くする方法」を教わりその方法で本当に鼻が縮んだのです。悩みが解決された僧侶でしたが、人々は何となく物足りないような気持ちで僧侶の鼻を見て笑っている。

人々の勝手さに憤慨する僧侶でしたが、ある日熱から目を覚ますと、鼻は元の大きな大きな長い鼻に戻っていた。「これで笑われない」と僧侶は喜ぶのでした。

『蜘蛛の糸』

『蜘蛛の糸』は芥川龍之介が初めて子ども向けに書いた児童向けの文学作品です。

〈あらすじ〉主人公は、カンダタという大泥棒です。地獄に落ちましたが、生前一度だけ「蜘蛛を助けた」という良いことをしました。

お釈迦様によって、蜘蛛の糸の救いの手が差し伸べられます。蜘蛛の糸にすがるカンダタですが、後に同じく地獄に落ちた者たちもその蜘蛛の糸にしがみつきます。

カンダタは「来るな、この糸は俺のものだ」と叫びます。すると蜘蛛の糸はカンダタのあたりで切れてしまい、再び地獄へ落ちてしまいました。

知っている作品も多いと思いますが、改めてまた読んでみたいと思ったあなたはぜひ、図書館やKindleなどの電子書籍でもすぐに見つかるので探してみてください。

なぜ「河童忌」という?

「河童忌」の名は、芥川龍之介が生前に好んでよく河童の絵を書いていたこと、短編小説の『河童』があることに由来しています。

『河童』とは、芥川龍之介が亡くなる1972年に発表された作品です。

<あらすじ>とある精神科病院の患者が話し手で進む小説です。ある日河童の国に迷い込みます。人間社会とは真逆の考えを持つ河童の世界に違和感を感じながらも、河童の世界になじんでいきます。

人間界に戻って来ると、人間社会では精神を病んでしまったことになり、通常の生活に戻ることができなくなってしまいました。

一体何が常識で、何が非常識なのかを考えさせられる小説で、河童の世界を描くことで、人間社会を批評しているように考えさせられます。

また、「河童忌」の季語は「夏」になります。

この他にも、芥川龍之介の忌日には、「餓鬼忌」(がきき)・「澄江堂忌」(ちょうこうどうき)ともいわれ、同じく夏の季語で俳句では使われています。

三島由紀夫の憂国忌

3人目は三島由紀の、憂国忌(ゆうこくき)です。

戦後の日本文学の担い手として有名な三島由紀夫ですが、名前を聞いて「三島事件」を思い浮かべる人も少なくないと思います。

そんな三島由紀夫の生い立ちと、代表作と憂国忌の由来を簡単にご紹介します。

三島由紀夫とはどんな人物?代表作は?

三島由紀夫は、1925年(大正25年)1月14日に東京・四谷で国家公務員の父と東京開成中学校会長の娘だった母の間に長男として生まれました。

本名は平岡公威(ひらおか きみたけ)といいます。生まれながらにして、エリート街道まっしぐらといった感じですね。

三島由紀夫は、祖母の影響で皇族が多く通った学習院初等科に入学し、詩や俳句、読書の世界に没頭しました。

次々と詩歌や戯曲などを学習院校内誌に発表しました。しかし、父は文学に夢中な三島由紀を叱りつけ、それは大学卒業まで続いたといいます。

そんな中で1941年に『花ざかりの森』を発表し、文学界へのデビューを果たしました。

1944年には、学習院高等科を首席で卒業し、東京大学へ進学。一度も第二次世界大戦へ参戦することなく、終戦を迎えました。

大学を卒業した後は、大蔵省に就職しますが、作家へ専業するたに一年で辞めました。

戦時中も作品を書き続けており、戦後の三島由紀夫は小説家として活躍しながらも、ボディビルダーとしてや、映画出演を果たし常に注目を得ていました。

三島由紀夫が書いた代表作には、『仮面の告白』、『鏡子の時代』、『近代能楽集』などの代表があげられます。

作品たちは日本国内だけでなく、脚本がノーベル文学賞の候補になるなど、日本の枠を超えて海外でも高く評価され認められていました。

三島由紀夫の晩年は、持論の政治活動に注力するようになります。自衛隊に体験入隊し、学生たちを集め、民兵組織「楯の会」を結成しました。

1970年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地へ楯の会の隊員4名と訪れ、総監室に入り、総監を人質に取りました。

そしてクーデターを呼びかけ、呼びかけに応答する者がいないことを確認すると切腹したのでした。これが、「三島事件」です。三島由紀夫は、45歳で自らこの世を去りました。

この事件は当時の社会に大きな衝撃を与え、日本国外でも速報ニュースになるなどしました。

なぜ憂国忌という?

三島由紀夫の命日の11月25日は、「憂国忌実行委員会」が毎年三島由紀の追悼式を開催しています。

三島由紀夫の短編小説『憂国』という作品に由来します。都内で現在も毎年恒例の集会「憂国忌」が開催され、200人以上が参加します。

神道形式の鎮魂祭が執り行われます。「薔薇と海賊」が朗読され、ゆかりの人々が挨拶をし、三島由紀夫をしのびます。

俳句の季語では、「冬」になります。

三島由紀夫の死から51年がたちましたが、なんとなく、硬い、難しい、右翼思想、などといった印象が強くて、なかなか読んでみようと一歩踏み出せない自分がいました。

しかし今なお多くの人に読み継がれている作品は、どれも世界でも高く評価されたものばかりで、ボディビルや映画出演などさまざまなことにチャレンジしていた三島由紀夫。

あなたも興味が湧いてきませんか?

最後に

この記事では、

 

  1. 菜の花忌2022!菜の花忌とは
  2. 司馬遼太郎と菜の花
  3. 菜の花忌シンポジウムの内容は?
  4. 菜の花忌と俳句
  5. 司馬遼太郎人気作品ベスト5!
  6. 菜の花忌日以外にも!作家の忌日

をご紹介しました!

司馬遼太郎ファンのファンに最近なった方は、「菜の花忌」や「菜の花忌シンポジウム」など、司馬遼太郎について少しでも知ることがきてお役にたてたら嬉しいです。

また、今回記事を読んでいただいて、少しでも興味が出たらまずは、司馬遼太郎記念館に足を運んでみたり、別の作品や映画などに実際に手を伸ばしてみてください。

今まで自分が知らなかった新しい世界へ、司馬遼太郎先生は連れて行ってくれることでしょう!

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